漫才で爆笑をとるには、まず最初の「つかみ」と呼ばれる段階で、
観客の心を掴まなくてはならない。これが一つ目のヤマ。
これでハズれると、あとで挽回するのは大変だという。
これは、小説でも同じで「書き出し」の部分で、
読者の心をつかめば、一気に畳み込むようにグイグイとストーリーの中に
引き込んで行くことができる。
「書き出し」で知られている小説として、まず挙がるのは川端康成の『雪国』だろうと思う。
”国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。”で始まる一文。
この文の役割は、人が普通に生活している日常の世界から
『雪国』という非日常の世界へさりげなく、それでいて強く誘っていくような響きがある。
また、カフカの小説『変身』の書き出しは、
”ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、
自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。”というもの。
これも、朝気づいてみれば、非日常の世界に居ることに気づく。
日常から一気に非日常へと変化させる文となっている。
フランス語で、「書き出し」のことを"attaque(アタック)" と言う。
これは、音の響き通り日本語の
保濕精華液「攻撃」と同じ言葉となる。
相手の心に撃ち込むというところから来ている言葉ということができる。
”「おい地獄さ行ぐんだで!」”というまさに攻撃的な言葉で始まるのは
プロレタリア文学として知られる小林多喜二の『蟹工船』。
これは、非常に攻撃的で印象に残りやすい。
また、カミュの『異邦人』の書き出しは ”きょう、ママンが死んだ。 ”から始まる。
攻撃的ではないが、この主人公がどうなって行くのか?
ということを感じさせる文でもある。
意外になんでもない始まりをするのが、プルーストの『失われた時を求めて』。
”長いあいだ、私は早くから寝た。”という何の作為も変哲なところも感じさせない一文。
印象づけるためのセンセーショナルなスタイルが横行していた。
そんな中で「何でもない」一文からの出発だったことが、
かえって当時のフランス人の心を掴んだとも言えそうだ。
人の心を掴むのは、印象的な「攻撃」ばかりでなく、「何でもない」ことに
人は余計に反応するのかもしれない。
作為的なものより「何でもない」日常的なところで生まれる笑いの方が、
人を引き込む笑いとなったりする。